中央構造線の謎
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断層探検15

辰のうみ(湖)  2017.2.26
長野県辰野町の伝説を知ってしまいました。(前回参照)
諏訪湖や安曇野にも通じる謎を探検します。
(一部、翌週3/4に撮影した写真で補完しています。)
伊那新町駅下車
右奥に問題の荒神山が見えます。

駅のすぐ西側は南北に連なる崖。
推定伊那谷断層帯ですが、今回ばかりはどうでもいいのです。

東へ進み、天竜川を渡ります。
北は辰野町の中心方向。

荒神山の西側には弥生時代の遺跡があるようです。
辺りは昔からの耕作地なのでしょう。

荒神山には文化施設が集中しています。

山のふもとを進みます。
あちこち地図にない神社が。

岩が露出していますが花崗岩ではありません。
調べてみると荒神山は火山岩類でできています。安山岩かしら?

東は一段低くなって中央道が通っています。

荒神山南端に社の入り口。


やたらと長い参道です。

荒神社
山名の由来でしょう。
山奥なのになかなか立派です。

荒神は仏教系のようですが、そんなことは問題ではありません。
多くの神社は、神代の昔から祈りの場だったのです。

荒神山に登ります。
辰野美術館で県宝の仮面土偶を見ようと思ったら、冬は非公開でした。残念。


ここは、農業用ため池のたつの海
古代辰の湖へのオマージュなのでしょう。

バシャバシャ水音がするので、見ると白鳥発見。
飼われているようです。

島の石碑に目が釘付け。
東天竜
まさか東を流れていた古代天竜川のことか?
裏の碑文を見ると、東天竜とは用水路のことでした。へー。

さらに登ります。
なかなか大きなため池です。
知らんかった。

さらに山頂にはリゾートホテル。
なかなかの賑わいです。観光地は地元民には理解不能ですが・・・。

尾根の延長上に展望台があります。

北を望む。
辰野町の中心部と天竜川。

西は伊那新町駅方面です。
もう答えが見えてしまいました。

地図を作成しました。
←クリック

標高730mの等高線をベースに古代湖を描いてみました。
地元の資料にしか載っていませんが、多くの断層が集中しています。
西側のラインが小野-辰野断層
上の写真の右奥から写真中央にかけて一直線です。おそらく、手前の天竜川まで伸びています。
この断層が湖を決壊させたのでしょう。

なぜここに湖ができたのかは、また後程。



山を下りると幼稚園前。

後で図書館で調べると元は水田です。
どうやら、かさ上げしているようです。

幼稚園の南は一段低くなっています。
どうやらここが古代天竜川

中央道をくぐると、東に丘陵が伸びています。

登ってみると結構な高さ。
古代天竜川の浸食にも耐えたのでしょう。
ここは荒神山と同じ地質で堅いのかもしれません。

丘陵をたどると幹線道路の県道。
昔からジャンプ台のような道で不思議に思っていました。
用水路が通っています。

石碑を見ると樋口とあります。
この辺りの地名です。


この用水路がどうやら東天竜

用水路をたどると社あり。
辰野千鹿頭神社

鳥居と社殿の間を東天竜が流れています。

西へ引き返します。
荒神山との間は古代の河原でしょう。

中央道をくぐると、この辺りが一番低いことを実感します。

これが古代天竜川の成れの果てでしょう。
樋口とは、トイを勢いよく流れる水を表しているようです。

北へ進みます。
ここでも中央道の辺りが一番低くなっています。

気になる名前の公園発見。
釜とは丸い鍋の底(頂点)を表しているのでしょうか?岡谷の釜口水門を連想します。

なかなか急な坂を登ります。
川なら渓流です。

古そうな林陶社
荒神山に工房があった、窯業の会社跡のようです。
荒神山では粘土が採れるそうな。ため池遮水の根拠にもなったそうです。

地形が一番狭くなった辺りに社あり。

八嶋神社。
もとはもう少し奥の中央道上にあったようです。

近くの公園から覗くと、中央道は荒神山を切り通しています。
この辺りが荒神山の北端です。

北を見ると別の丘陵が見えます。
短大のある中山です。そこも火山岩類でできています。




山を下りるとホテルの先に急坂があります。
荒神山西麓を走る川岸-辰野断層の一部でしょう。

天竜川は荒神山にぶつかってから西へ折れているように見えます。

北へ進むと辰野パーキングエリア上り線。上りは車も含めて初めて来ました。
中央道建設で、地形はいろいろ改変されてしまっています。

パーキングエリアにラーメン屋あり。
地元民がほとんど来ないラーメン屋は珍しいですね。美味。

高速名物の実演自販機コーヒールンバ♪
まさか今日ありつけるとは思ってもいませんでした。
辰野町の中心市街を眺めながら一服。

さて探検再開。
中央道に沿って東天竜が流れています。

東天竜が社叢を横断しているではないですか!

法性神社

]
辰野は海軍の街?!
大和艦長の有賀幸作顕彰碑です。
同期で武蔵艦長を務めた古村啓蔵も輩出しました。
古村氏は生還し、後年は山本リンダのファンだったそうな・・・。それは要らない豆知識。

なかなか大きな神社です。
御柱付き。じつは辰野は諏訪文化圏です。

そして確かに拝殿前を東天竜が流れています。なぜ?

さらに北へ進むと、大きな寺院の屋根だけ見えました。東天竜は一段高いです。

手前の東天竜が河川を越えています。
ポンプのない時代、広域農業用水を確保するのは大変だったのですね。

道がダートになりましたが、東天竜はさらに北の取水口めざして伸びています。

なかなか迫力のある寺院。
東天竜に沿って宗教施設があるのはなぜ?

そろそろ下へおります。

天竜川に出ました。


さらに進むと、ちょうど飯田線直通の中央本線の電車が、社の横を通り過ぎていきます。



三輪神社
新しい御柱が立っています。
ここの御柱は樹皮をはがさないので荒々しいです。御柱生贄説もうなずけます。

社殿は一段高くなっています。
自作の地図では古代湖に漬かりますが、それはあくまで現在の等高線の話。古い神社なら当然、湖畔だったのでしょう。

神社を出ると、またもや用水路。
なにやら誘導されているような気分です。(こういう時はおとなしく従うことにしています。)

どうやら、これは東天竜に対して西天竜
崖に沿っています。

辰野病院前で崖に登ってみます。

ここなら、もちろん古代湖の上。
遺跡の分布を調べてみると面白そうですね。

北西を望む。
こちらは支流の横川川の谷です。

絶対安全な高さの大神神社
ようやく春が近づいてきました。

横川川を越します。
その先の図書館で文献調査。
いろいろ見えてきました。

最後に、小野-辰野断層を探検します。
ここは伊那新町駅近くの南端。

延長上は天竜川と荒神山。
展望台が見えます。



伊那谷断層帯とクロスして北へ伸びています。伊那谷断層帯よりも最近活動したということなのでしょうね。

断層崖の上に宮木諏訪神社
前から知ってはいましたが、伊那谷断層帯以外の断層が伊那谷にあるとは思っていなかったのでノーマーク。
視野は常に広くしたいものですが、なかなか難しいことですね。

なんと、ここでも社殿の下を西天竜が流れます。
どうやら似たような高さに神社が建てられているようですね。
古代湖の根拠のひとつでしょう。

断層崖は北へ一直線に伸びています。

プルアパートベイズン【 Pull-apart basin = 盆地を引き離す(直訳) 】 と断層湖

紙に線を描いてカッターで切ります。
黒い線が断層だと思ってください。

左上と右下を持って、左右に引っ張ると、真ん中が凹みます。

そう、これは諏訪湖のモデル。
赤い線は中央構造線です。

雁行配列の断層が個別に動くと、間が凹んで湖や沼になることがあります。
辰の湖もおそらくこれでしょう。そして小野-辰野断層の右横ずれで湖が決壊し、今の姿になったと推定できます。
やっぱり地学は面白い!



熊本地震の益城町訪問  2017.3.19
まもなく1年が経過する熊本地震の被災地を訪問しました。

日の出とともに熊本市電でスタート。

古い車両はレトロな木の床です。

まずは熊本城・市役所前電停下車。

三年ぶりの訪問です。
石垣の上の長塀が消失しています。

城内ほぼ全域が立ち入り禁止。

熊本大神宮は倒壊したと思いこんでいたら社殿は無事でした。
石垣の崩壊に巻き込まれて、社務所が倒壊したようです。

無事の石垣もあります。

この見事なエッジが熊本城の魂です。

壊滅的な北側。

加藤神社は無事でした。

宇土櫓も無事に見えます。
奥の鉄筋コンクリ展望台も内部は無事でしょう。でも瓦はグチャグチャで草ボウボウです。

未申櫓は厳しい。

西門の先は崩壊しています。

まるで墓地のよう。
崩れた大きな石は、番号がつけられて保存されています。

問題の五階櫓。
痛々しく、巨大なサポーターで支えられています。

気が遠くなるような大工事が必要ですが、熊本城の復活に期待しましょう。
ところで、あちこちに募金箱を置いておけばいいのに・・・。

市電で進んで、健軍町電停からバス移動。


木山上町、下車。
ここが益城町です。

更地の向こうに天神社


被災地特有のブルーシートがまだあちこちに見られます。


アウトの赤札。
久しぶりに見るのでドキドキします。

報道番組で「UNSAF」というのを確かに見ましたが、あれは何だったのかしら?


看板が無残な益城町役場


本庁舎は一部使用不能の模様。
たしかに壁が危ういように見えます。

南へ進みます。
まるで戦争があったかのような光景。

南へ向かってずっと下り坂です。


木山神宮
周囲は倒壊した家屋や更地です。
しかも謎の西向き。

まだ、細かいところまで手が回らないようです。


鳥居は倒壊の模様。
ここは一段高くなっています。
公の資料では布田川断層の西端にあたります。
多くの人が指摘するように中央構造線と無関係ではないでしょう。

拝殿 本殿はペチャンコ。
(拝殿は取り壊されたようです。)
神戸の生田神社の再現のようです。

社務所には震災前の写真が飾られています。

住み家を失ったのか、ノラ?が複数さまよっています。

秋津川到達。


ふり返ると、この辺りは平たんです。
右奥が木山神宮の杜。

秋津川に沿って西へ進みます。

北側を覗くと、手前は被害が少なく、数十メートル先は被害が大きいようです。

秋津川の少し北側に震災の帯があるようです。
この段差はまさか・・・。

秋津川の南は耕作地が広がっています。
両岸には護岸用の土嚢が並んでいます。

震災の帯に金松神社

今にも崩れそうな壁のお宅。
素早く通過します。

いったんバス道に戻りました。
たしかに北側(右)より南側(左)の被害が大きいようです。

往路のバスは、ときどき嫌なバウンドをしました。
まだ、あちこち変状が残っています。

バス道沿いの惣領神社
社殿は損壊の模様。

当地の大きめの鳥居は全滅でしょうか?
ここは北側に倒れたように見えますが、どちら側に倒れたのか、記録は残っているのかしら?


ふたたび秋津川へ向かいます。

やはり震災の帯は明瞭です。

観音堂の跡でしょうか?

この辺りは水びたし。

見ればあちこち勝手に水が湧いています。

空き地?に水たまり。
低湿地帯のようです。

秋津川対岸の中学校は被害がないようです。


西へ進むと九州自動車道

震災の帯のあたりは復旧工事中。
どうやら震災時は大規模に崩壊したようです。


保育園の横に小さな天満宮

ここは灯篭が南へ倒れたようです。

ここも盛大に水が湧いています。

このお宅は敷地から勝手に湧いています。


土嚢番号1の次は999ではなく915。
謎だ・・・。

道をそれて、再びバス道のある北へ向かいます。

震災の帯にある、この用水路はクランク状です。

道も折れています。
断層があるのなら、右横ずれに見えます。

バス道近くの竹内神社
鳥居は神門形式。倒れませんでした。
でも何かが破損したらしく、脇のブルーシートに包まれています。

バス道に到達。

交差点のすぐ先に沼山津神社
ここの鳥居は失われたようです。

社殿は一段高くなっています。

バス道(県道28号)と秋津川の間に、震災の帯を確認することができました。布田川断層の延長があるのでしょう。



沼山津神社前で、たまたまやって来たバスに乗って健軍町、そして市電で水前寺公園電停下車。

細川家の水前寺成趣園
都市の中の不思議空間です。

園内の出水神社
これは細川家の氏神。

公園の周りにも被害が残っています。

考えてみるとシートで覆っているのは補修可能な家屋です。
完全倒壊なら何もできませんよね。

連休なのにシャッターの目立つ土産物屋街。
湧水が減ったと報道がありましたが、上流で湧水が溢れているせいなのでしょう。
地図を見れば南に大きな江津湖があります。ここもプルアパートベイズンなのかしら?


博多の警固断層  2017.3.19

昼過ぎに熊本を後にして、西鉄大宰府駅下車。


寄り道します。
ああ、そろそろ足が限界なのに階段地獄。

九州国立博物館。
最初の展示は9万年前の阿蘇山破局噴火(aso4)で焼けた樹木でした。
意味深いですね。
この重大な現象を知る九州人はどれくらいいるのでしょう・・・。

たたり神にあまり興味はないのですが、いちおう参拝。
右の飛び梅は未開。

拝んで頭が良くなれば世話はありませんね。



西鉄で終点の福岡天神駅到着。
福岡の中心部です。

ビルに囲まれた神社あり。

不思議空間の警固神社
けご、と読みます。
ここも謎の西向き。

この先に何が?
今回は下調べしておきました。


←最近覚えたマウスオン切り替え
もっと早く使っていればよかった・・・。

道が急にカーブする手前に警固断層があります。

右はけご病院
この辺りの地名が警固です。

断層をたどってみます。

そういえば、地下鉄工事で陥没事故がありました。
地下鉄は警固断層を貫いているようです。
資料は採集できたのかしら?

マンション脇の駐車場。
痕跡はありません。

ようやく段差が見えました。


ここはお寺の裏道。
明瞭です。


住宅や飲食店を貫いています。


ここは複雑な交差点、薬院の六つ角
その名の通り六差路です。

隣の薬院駅到着。
足も明るさも限界。

警固断層の延長は福岡県西方沖地震(2005年)の震源といわれています。福岡市内で活動したら推定M7.2。この大都会はただではすみません。ご用心、ご用心。


宇曽利カルデラ(恐山)  2017.5.4
地学的興味のみで宗教施設に潜入します。

大湊線 下北駅前に前泊。
山の上に何かがあります。

下北ジオパークは2016年加盟の新しいジオパークです。

駅前のバス停からスタート。
さすが連休で、ほとんど満席。


40分ほどで到着。
臭いです。

宇曽利湖と外輪山。
宇曽利カルデラの底です。
臭いです。

気になっていたのは、最高峰・釜臥山の空自レーダーサイト
三沢基地も近いです。
まるで狙ってくれと言わんばかり。
私なら囮のダミーにしますが・・・。

辺りは放棄された石柱群。
ここも震災の最前線でした・・・。

大人500円で核心部に潜入します。


あの世の入り口のイメージが色濃いです。
地蔵は閻魔大王が変身した姿だそうな。

イタコもいます。
いまのところ、緊急に問い合わせたい亡者はいないのでスルー。
資産等は紙の一覧にしておきましょう。
絶対秘密は迷わず墓まで持っていくこと!

男女別温泉もあります。無料。

お・ん・せ・ん。
つまり熱水が噴き出ているのですね。
ふっふっふっ。


突き当りは地蔵殿。
仏教系なのに狛犬付き。
まあ今はそんなこと、どうでもいいですよ。


地蔵殿の左から地獄めぐり?が始まります。
善光寺などの元ネタかしら?

荒涼とした空間。火口そのものです。
もちろん、臭いです。
子供が「臭いよー!」と訴えています。
地面に近かけれゃ影響は大。
ただの観光地ではありません。子供やペットはやめた方がいいでしょう。
オジサンも時々クラッとします。

白い石は穴だらけの軽石です。


お願い
硫化水素が着火するので禁煙
ローソク・線香は指定場所のみ

燃えるんだ!おーこわ。

温泉がしみ出す、花崗岩のような岩。しかし花崗岩は地底深くマグマから析出する岩石です。

辺りを見渡せば、同じような岩が点在。

これぞ熱水鉱床
いや、もっとはっきり言おう。
金鉱石だー

宇曽利カルデラは大規模な金鉱地帯なのです。

写真には写っていませんが、湯気が激しく出ています。
しめしめ、臨界水が溶け込ませた希少鉱物が今まさに析出しています。
未来の日本人よ、ご期待あれ。
恐山は宝の山よ!

なんて穏やかな光景。
その名も極楽浜
極楽なのに人の欲の権化、金がザクザク!の矛盾。

どこか状態のいい金鉱石は落ちてないかしら?目がランランと輝きます。

観光客がずらずら歩いていきます。
ああ、私も亡者の一人。

金堀地獄

はい、ごめんなさい・・・。(-ω-)
境内からの持ち出しはすべて厳禁です。

五智山展望台。
眺めはいいのですが、熱風が立ちこめます。噴気孔があるのでしょう。
暑い暑い。


入口に戻ってきました。
桜はどんどん散っていきます。

脇に、ひと気のない神社があります。

パンフレットによれば、龍神堂稲荷大明神。縁起は不明。
もちろんここも、古代人の祈りの場だったのでしょう。
宇曽利(なまって、恐れ)はアイヌ語でウショロ(くぼ地=カルデラ)。
青森に式内社がないのは、長くアイヌの王国だった証拠です♪

奥に、まるで爆裂火口そのものが見えます。眼福。秘仏を見た気分。

ここで30分ほど休みますが誰も来ません。鳥も鳴かない無音空間。
そろそろ出ようとしたら、やっと一人登ってきました。

バス停から道路を引き返します。

散らばっているのは外輪山から崩れた安山岩かしら?

三途の川、到達。
行者がほら貝を吹き鳴らすので、雰囲気満点です。

よく見ると、水が流れ出ています。
どうやら唯一の流出河川。
砂金が採れるかも!

宇曽利湖もブクブクとあちこち噴出中。そこら中、金鉱脈形成中です。
もちろん、臭いです。

腐った卵は実在しないようですが、その臭いを誰でも知っているのは不思議といえば不思議。(笑)

極楽と地獄のはざまに、大金山の夢を見てしまいました。もちろん宗教施設なので、開発は御法度ですが。




三内丸山遺跡  2017.5.5

青森駅前から路線バスで約30分。
無料のためか開館前から大行列。

列車が走る音がするので、振り返ると新幹線です。へー。
ただし新幹線工事ではなく、野球場建設をきっかけに発掘された遺跡です。

9:00開館。
どうやら多くの親子連れは体験企画に参加のようです。


まずは展示を見ます。

光の当て方がシムラなので怖いです。
重文の大型板状土偶

当地の土偶は寝かせて置くのが流儀のようです。

破損が見られない土器。
重文だらけです。

驚異の縄文ポシェット
5500年前の編み物が現存しているとは!

まだ十分使えそうな、とがった石器。

こちらも使えそうな針。
なぜ放棄されたのか?
埋葬した故人の遺品にしては膨大です。
ちなみに、アイヌでは道具を廃棄するときに一部を壊して魂を抜く文化があります。

土偶のコーナー。

なんとか立たせようとした革新者はいました。でも惜しい。
あらためて国宝を生んだ縄文アーティストは偉大だと思います。

諏訪の黒曜石も、もたらされていました。さらに北海道の白滝からも。

糸魚川のヒスイも。
日本海ネットワークの存在は間違いないですね。

これらのお宝を放棄して、なぜ村は滅んだのか?
どこの遺跡も終わりは謎です。

さて、村を見に行きましょう。

目を疑うような大規模建築物。
集会所だったという説があるそうな。

質素な持続型社会を旨とする縄文人が必要とする規模ではありません。
何か勘違いか、作為があったように感じます。

これも御柱だけが正解でしょう。
縄文人にとって、巨木は美しく立てることに意味があります。

これは廃村の再現か?
放棄された住居が点在しています。
学術と観光のはざまで、少し迷走気味のようです。

少々疑問はあるものの、青森の縄文文化を感じることができました。



青森駅前に戻って、青函連絡船八甲田丸を訪問。

大戦末期に、青函連絡船はほとんど沈められました。
洞爺丸事故も含めて、この先の海底に多くの犠牲者が眠っています。

煙突の展望台へ向かいます。

はるか彼方に、宇曽利カルデラの全貌が見えました。青森県は、他にも多くのカルデラ火山が集中しています。

テクノロジーを持たない縄文人は、自分たちの存在が危ういことを承知の上で勇躍しました。
さて現代人で破局噴火を意識している人はどれだけいるでしょうか?


寒風山と棚倉構造線 2017.5.6
自作の地図では寒風山の東を棚倉構造線が通ります。

男鹿線 脇本駅下車。
男鹿半島の付け根です。

北へ崖が続いています。
男鹿半島はもともと島なので、海食崖なのかもしれません。

寒風石が特産のようです。
安山岩の銘石だそうな。

崖に近づいてみます。

公民館の脇に、社の入り口発見。

急階段を恐る恐る登ります。

地図によると三嶋神社。
火山の鎮めか?
境内にはなまはげの伝承が書かれています。なまはげは鬼ではなく、土地の精霊のようです。

神社の裏手を下ると広大な耕作地。
昔は入り江だったのかもしれません。
意外に近くに見えるのが寒風山


最後の活動は2700年前のまぎれもない活火山のはずですが、なぜか指定されていません。
観測所ではなく展望台付き。


三万年前から活動する若い火山です。膨大な噴出物が地層を作っています。

私説では、この辺を棚倉構造線が通るはずですが、よくわかりませんでした。
地図上でさらに北へ延すと、奥尻島辺りのプレート境界に至りそうですね。もはや妄想以外の何ものでもありませんが・・・。




上町断層小探検と民族博物館 2017.8.13
お盆は西日本を小旅行。
阪和線 百舌鳥駅下車。
ここは大阪府 堺市です。
摂津、河内、和泉の境界が名の由来。

正式推薦が決まりました。
今や日本中、世界遺産だらけ。

長野はというと・・・、なぜか候補すら無いや!


ここが正面、前方部です。

教科書が書き換わったようで、今は大仙陵古墳が正式名。昔はもちろん仁徳天皇陵でした。
面積なら世界最大の墓のようです。
ピラミッドのインパクトには敵いませんが・・・。

ここのスフィンクスは、堀を眺めながらウトウトしています。

東日本は梅雨明けが実質なかったようですが、西日本は連日の真夏日。
まだ朝ですが、だんだん暑くなってきました。

堀に沿って西へ進むと、クイッと下り坂。
上町断層です。
この古墳は断層崖のすぐ上に造られました。
地図を見ると周囲は古墳だらけです。
堀はため池の用途もあるのかしら?

直線的な断層崖に沿って街道があるようです。

古墳時代に漢字が伝来したものの、被葬者の記録は無いそうな。
天皇級の規模ですが、まさか誰の墓なのか不明になるとは、当時の人が知ったら仰天するでしょうね。
あたりまえは永遠ではないのです。


阪和線で引き返して長居駅下車。


すぐ近くに大きな公園があります。


公式資料では、入口の交差点を上町断層の一部が通って・・・、


この道に沿って伸びているようです。
もはや地形を追っても分かりません。
造成前には崖があったのでしょうね。

上町断層が活動したら、
推定M7.6
、死者4万2千人!
ご用心、ご用心。

鉄道を乗り継いで、大阪モノレール 万博記念公園駅下車。
公園の奥に国立民族学博物館

世界各地の民族資料を見て回ってから、最後のエリアが日本。
まずはアイヌです。


おお、これは縄文のポシェットだ。


イナウの展示。

こちらは隣のヤマト文明の展示。
ヤマトでは けずりかけ というそうな。

けずりかけ と イナウがギリギリ同時に見られます。もちろん起源は同じなのでしょう。


おっと、これは北信濃の道祖神。
村の入り口に置いてあったら、旅人はビビリます。

やはり信濃は縄文文化が色濃いように感じます。


岡本太郎氏は縄文ファンでした。
後ろから見たこの像は、やっぱり土偶ですね。
何千年も前のアヴァンギャルドを超えられましたか、先生?




吉備国の謎探検 2017.8.14
4つに分割された古代王国を探検。
岡山から吉備線に乗って、備前一宮駅下車。



桃太郎伝説の地です。

駅から見えるのは吉備国の神奈備、吉備の中山


徒歩数分で到着。
備前国一ノ宮 吉備津彦神社
「津(つ)」は古語で所属や位置を表す、「~の」といった意味のようです。
「彦」は男子の美称。
ならば、吉備の男の神社
その男こそ桃太郎のルーツです。

強制茅の輪くぐり。
茅の輪は、鳥居や注連縄(しめなわ)のルーツのひとつかもしれませんね。

拝殿に参拝。
今日は注連縄に着目してみましょう。
ここは、ほぼ普通の注連縄です。

案内看板を見ていると、吉備の中山には多くの遺構があるようです。
200mに満たない低山ですが、真夏の登山は悩みます。

決心して登山開始。
はじめは緩やかな坂ですが、そのうち、気合を入れないと進めないような急坂になって難儀します。(写真を撮るどころではありません。ヒー!)


ようやく平らなところにたどり着きました。
標高は160mくらい。


立て看板によれば木漏れ日の道
私は汗だくですが、秋や春なら気持ちのいい散策路でしょう。

おお、これはストーンサークルだ。
道を取り囲むように巨石が配置されています。
これを磐境というのでしょう。
古代人の祭祀場です。

これは桃太郎の墓。
宮内庁管理の吉備津彦命の前方後円墳です。
ヤマトの王子が派遣されて吉備を征服したとされています。


古墳の脇に、目もくらむような下り階段があります。
こっちから登ろうとしたのなら・・・、あっさり断念していたでしょう。登り道は先が見えない方がモチベーションを保てますね。
国語の教科書にのっていた、「あの坂を登れば海が見える」という話を思い出します。

階段を下りて進むと神社到着。
ただし裏口のようです。


いわれなくても汗まみれです。
長い廊下を進みます。


備中国一ノ宮、吉備津神社
一ノ宮がこんなに接近しているのはここだけでしょう。直線距離で1km少々。もちろん、ここの祭神も吉備津彦です。
写真を撮り忘れましたが、ここの注連縄は少し変わった出雲系
なるほど。

ここが本来の入り口です。
逆に回って正解だったので、結果オーライ。こっちからスタートするのなら、真夏はやめておいた方がいいです。

古代は瀬戸内海が何メートルか高かったようです。
もしかしたら、ここが鬼ヶ島のモデルなのかもしれません。
吉備の中山は、古代の国境でもあります。それは吉備を ヤマト と イズモ が分割統治した結果なのかもしれません。

この姿がリアル桃太郎でしょう。
鬼(元の支配者)の名が吉備津彦で、倒した征服者が名を奪ったという説もあるようです。
後の時代のヤマトタケルはクマソタケルを破ってタケルの名を得ましたね。

吉備津駅から岡山に戻ります。



津山線で津山駅下車。


実はここが目的地の、今年できた博物館。なつかしい気動車がいっぱいいます。

駅のバスターミナルで調べてみると、ちょうどいい時刻のバスをみつけました。ラッキー。

お客はやっぱり私ひとり。
どこの地方の路線バスも壊滅的で、とっても不安です。AI自動運転が先か、路線廃止が先か?

途中、総社や国府という地名があります。美作国の国府だったのでしょう。

美作国一ノ宮、中山神社
たまたま訪問できました。

「中山」は吉備の中山に由来するようです。



一ノ宮にしては短い参道を進みます。


手前はシーサー型狛犬。


奥に・・・、これはだ!


おお、ここは間違いな出雲系注連縄
諏訪大社下社秋宮も同じです。
神社は注連縄を見よ、とまでは言いませんが、文字のない時代のヒントのひとつかもしれません。

さらに奥には猿神社があります。
どうやら元々あった神社のようです。
バスの時間が厳しいので、ここで引き返します。

本殿が丸見えなのはちょっと珍しいです。
製鉄で栄えた吉備国が、前・中・後に(適当に?)分割された24年後、備前から美作が分離されました。
それは出雲が割譲を要求したのかもしれません。
さて備後国一ノ宮の注連縄はどちらかしら?検索しないで楽しみに取っておきます。


韮崎の七里岩   2017.9.10
山梨県 韮崎市の謎を探検します。
中央線 新府駅下車。
右奥のピークは火山茅ヶ岳
深田久弥氏が亡くなった山です。

丘に登ると絶景が広がります。
鉄道写真の名所です。
この台地を七里岩といいます。

おっと不意にスーパーあずさ登場。
とうとう12月に置き換えが始まります。


丘の上の果樹園とはいえ、立派な側溝を完備。
山梨県では徹底的に直線的コンクリート側溝が整備されています。
この理由は後ほど。


西へ進むと幹線道路に出たものの、歩道がない! おー怖っ。


脇道にそれて進むと丘陵が見えてきます。


ここは武田氏最後の城、新府城跡


西を見下ろすと、高さ数十メートルの断崖です。ただし今回は断層ではありません。


なだらかな道を進むと頂上の本丸に出ます。

長篠の合戦で討ち死にした幹部の供養塔が林立しています。


端の方に藤武神社


崖下をのぞくと、幹線道路が見えます。
どうやら東側が正面のようです。


ようやく八ヶ岳が見えました。
かつてもっと高い成層火山だったころ、山体崩壊が発生して、膨大な岩屑なだれが甲府盆地を覆いました。
川に削られて残った丘が七里岩というわけです。
また、そこら中にある丘陵を流れ山といいます。


磐座級の巨石もごろごろ。
かつて山体の一部だった火山弾でしょうか?
山体崩壊の原因は、噴火なのか仏像構造線の活動か?

そのとき、釜無川に流れ出ていた古代諏訪湖をせき止めたのかもしれませんね。

さすが城跡。道に迷いながら、なんとか下山。
たどりついた幹線道路には、やっぱり歩道なし。


脇道に逃げ込むと、見事にスタート地点に戻っています。
ここまで1.5時間。コンビニなし。腹減った。

曲がりくねった道を進みます。
流れ山を避けたからでしょうか?

この石碑には蚕神とあります。
果樹の前は桑畑だったのでしょうね。
四すみの竹は諏訪の(縄文人の)影響を感じます。

地図によると縄文時代の坂井遺跡があるはずですが、看板すらありません。
それにしても、徹底的に水田がありません。

韮崎中央公園でひとやすみ。
9月になりましたが、日中はまだまだ暑い。


今日はウォーキングイベントがあるようです。
そういえば、あちこちの道路に矢印が書いてありました。


韮崎市民俗資料館 訪問。


おびただしい縄文遺物が展示されています。


それに対して、弥生時代はたったこれだけ!
なるほど。


ずっと時代は下って、近世の漁猟具。
命がけで川に入っていたのですか・・・。
期待していたのは、近世の暗黒史についてですが、軽々しく扱えないのでしょう。展示はまったくありません。

かつて山梨には地方病がありました。
←科学映像館より
水に触れるだけで感染する絶望的な状況でした。
詳しくはWikipediaへ
地方病(日本住血吸虫症)
プロジェクトX 二時間スペシャル並みのドラマです。

ようやく七里岩の突端に到達。
すぐ下は韮崎駅。
おや、別の丘陵も見えますね。

丘の下は一面の有病地でした。
丘の上や山麓に暮らした縄文人は、もちろん知っていたのでしょう。水に入るのはタブーだったのです。

平和観音
韮崎のシンボルです。
山梨100年戦争の犠牲者を慰撫しているのでしょう。
日本は住血吸虫症を撲滅、制圧した世界唯一の国である。(Wikipediaより)  先人の努力に深く感動します。

今や山梨はフルーツ王国。
山梨の米生産(作付面積あたり)は全国43位。
水田が少ない理由を知る他県人は少数でしょう。


おっと、こちらの霊峰も、いつか山体崩壊する運命にあります。
ご用心。

丘を下りる途中に宗教的トンネルあり。
恐る恐る、潜入します。


内部は砂やら石やら、ごちゃ混ぜ。
これが七里岩の正体でしょう。
けっして一枚岩ではないのです。

本能的に?妙に寒気がすると思ったら、やっぱり危ないんだ!
崩れやすいから、川に激しく削られて断崖になったわけです。

七里岩はここまでですが、岩屑なだれは甲府盆地を広く覆っています。
八ヶ岳はいったい何メートルあったのやら?
富士山と高さを競ったという伝説もありますね・・・。


韮崎駅到着。

密度の濃い探検でした。
(今回のレポートは字が多いですね。)

抗寄生虫薬の巨人、大村智氏がこの地に誕生したのも偶然とは思えません。
先人の情念のようなものを感じませんか?

中央線は七里岩に突入していきます。

さて、この地の縄文人はどうなったのか?
諏訪を支配した弥生人は、やがて甲斐にも勢力を広げ、縄文人も交えて水耕を広げようとしたはずです。
しかし水に入るのはタブー。ダメ、絶対!
縄文人は従順・協力を拒否し、北へ逃れていったのかもしれません。
そういえばアイヌも農耕を好まないようですね。

蝦夷と書いて、アイヌは カイ と読みます。
北カイ道の語源です。そして当地は甲斐の国。
いろいろと興味深い探検でした。


吉備国の謎探検 完結  2017.10.09
注連縄を見に備後国一ノ宮を訪問。
広島県府中駅前に宿泊。
府中なのだから国府だったのでしょう。

広島県東部は備後の国です。
吉備国の東は兵庫県にかかります。
為政者が広大な吉備国を見れば、分割(弱体化)したくてウズウズしたのもうなずけます。

3駅先の新市駅下車。
バスはないようなので、タクシーを利用します。
前日は別件で歩き過ぎたのでちょっとズル。

北へ数分で到着。
鳥居を普通に通って奥まで入ってくれました。

ここが本来の入り口。
備後国一ノ宮 吉備津神社

参道脇に桃太郎。
ここは広島です。念のため。
祭神はもちろん大吉備津彦命

一番奥に本殿あり。


さて注連縄は・・・、あまり主張がなく普通ですね。


本殿の奥は何もありません。
本殿が元は拝殿で、実は本殿がないスタイルだとしたら、古いタイプの神社です。
創建は吉備国分割後のはずですが、もともと古い神社があったのかもしれません。

神社を出て、鳥居の先には御池
次の神社は写真奥の方向に歩いていきます。

御池から流れる用水路をたどります。


さらに川に沿って南下します。


どうやらこの小道が参道で、ここが入り口のようです。
ならば手前は古い街道でしょう。

街道?をたどって川を越えると、すぐに別の一ノ宮があります。
備後国一ノ宮 素盞嗚神社
絶対書けない難しいスサノオの字を用います。

個性的な狛犬。


サーカス系です。
各地の狛犬の製作者は絶対にウケ狙ってます。
きっと狛犬マニアも大勢いるでしょうね。多様性抜群のディープなジャンルです。

一ノ宮にしては小さな拝殿。


さて注連縄は・・・、ここも特徴はありません。がっかり。
長らく神仏習合のお寺だったそうです。

本殿は小さいながらも、なかなか立派です。


本殿の横に蘇民神社


「茅の輪くぐり発祥の地」とあります。
ここは蘇民将来信仰のルーツと考えられています。

長野県でも上田に蘇民将来符のお守りがあるよなと思っていたら、神社のすぐ隣を福塩線の電車が走っていきます。
出雲までは直線距離でちょうど100km。
蘇民将来は人名で、出雲のスサノオに宿を貸した縁で便宜を図ってもらえてラッキーだったという話です。

東の端が本来の入り口。


鳥居の脇に縁起を記した碑あり。
スサノオの命は・・・出雲神話の祖である。
この神社はイズモ系なのでしょう。
ならばもう一つの一ノ宮はヤマト系なのか?
川を挟んでどんなドラマがあったのでしょうね。

ヤマト王権が日本を統一したとされた後も、イズモを筆頭に多くの勢力が存在したのでしょう。古代日本どころか江戸時代まで、日本は一枚岩ではなかったのです。あちこちに厳然と国境が存在したわけですから。

徒歩一分で上戸手駅。
吉備国の一ノ宮めぐりが完結しました。
何もかも統一された現在では想像もできない昔の日本の姿に思いをはせながら、新幹線でいくつもの国境を飛び越えて帰りました。




つづく